\本記事はこんな方にオススメ/
- 石坂敬一さんについて知りたい
- 音楽業界の宣伝手法を知りたい
- 音楽ビジネスに興味がある
海外アーティストを売りまくった男
1966年の来日公演で日本中を賑わせた「ビートルズ」。現在でも多くのファンに愛されていますが、ビートルズを日本で流行させた仕掛け人に ”石坂 敬一” という男性がいます。
当時は、英国EMI本社から「次はこのアーティストを売れ」と指令が飛んできます。国内では無名の海外アーティストですので、プロモート次第では大失敗の恐れもあります。
洋楽ディレクター ✕ 宣伝マン
石坂さんは、『11PM』『リブ・ヤング!』といった若者層に人気のあるTV番組やラジオに出演してアーティストを宣伝するという、それまでの常識をひっくり返す戦略にでます。
このとき、石坂さんはまだ20代の平社員。洋楽ディレクターだけでなく、プロモーション企画や宣伝マンの仕事もこなすマルチプレイヤーとして頭角を現しはじめます。
洋楽ディレクター ✕ 編集者
最近では、洋楽も洋画も原題タイトルが多くなりましたが、当時の洋楽ディレクターは自分の「アイデア」「企画力」で全面的に勝負していました。
洋楽では貴重な情報源になるライナーノーツでは、そのまま翻訳するのではなく、文才ある立川直樹さんや、今野雄二さんに依頼するなど、編集者としての才能も発揮します。
「ミスター東芝」と呼ばれた時代
1984年、同期でもある ”新田 和長” さんが邦楽アーティストをほとんど引き連れて独立。その穴を埋めたのが石原さんで、邦楽部門の制作部長に抜擢され立て直しを図ります。
この戦略が大当たりで、石坂さんの時代がはじまります。そして彼は「ミスター東芝」と呼ばれるようになり、最終的には専務取締役まで昇りつめます。
他レコード会社の経営者となる
石坂さんは東芝退社後、ポリグラム、ユニバーサルミュージックの社長として迎えらます。そして、持ち前の才覚を活かしユニバーサルを日本一のレコード会社に押し上げます。
ユニバーサルミュージックを去ると、今度はワーナーミュージックで代表取締役会長兼CEOとなり腕を振るいます。それから5年後ほどして、71歳で亡くなられました。
さいごに
石坂 敬一という人は、ディレクター、宣伝マン、編集者、経営者など、さまざまな立ち位置で日本レコード業界に革新をもたらしました。
さいごに、石坂さんは「ランチャーズ」(加山 雄三ほか)でベースを弾いていたそうです。だからこそ音楽を熟知し、たまらなく大好きで、その人生を捧げたのでしょう。